昭和48年7月7日  -  夜の御理解
                             【入力者: 末永 満】

 だからあの天地の開ける音を聞いて目を覚ませという(?)。開ける音というかその音があまりにも大きいために聞こえない。いわゆる、地球の回転音というのはすさまじいに(?)けれども、あまり大きいからかえって聞こえない。それを聞き取らせて頂けれる神経、そういう心を使うていくのが信心だということですね。
 今日の一時の御祈念に麻生さんがお参りしておられましたが。「先生、昨日は大変広大なおかげを頂きました」という。ご自分は商売に出ておられる。で、奥さんは買い物に出ておる。(?)(?)(?)(?)。それで帰ってみたところが裏の網戸が切破られて、掛けてあった鍵が(?)(?)。丁度そこへあの(たいこさん)というですか。娘が学校から帰ってきたんですから。けどもとにかくやはり泥棒が入った(?)だけはあるわけです。網もこう破られておる鍵も崩されておる。けれどもその丁度帰ってきたからそのもうその表からこう泥棒がすぐ逃げたような感じらしいです。何もとられてない。大変広大なおかげを頂いたとこういうわけなんですけれどもね。ほんとに広大なおかげを頂いたなと。けれどもね、日々平凡無事であるということはもっともっと有難いことなんです。
 だから信心というのはその平凡無事な時にはー、今日も無事であったというかそういう喜びが本当の喜びとして頂けれるような稽古なんです。いわゆる、大きなあまりにも偉大な音かけ聞こえないのです。そこんとことを聞き取らせてもらう。そこんところを分からせてもらう。それが信心させて頂く者の幸せというのはそういうところが分かるから有難い。ね。
 痛いのが治ったのが有難いのではない。いつもまめのが有難いのぞというその平凡無事である時に有難いということの方が話しを聞きゃこれだけのこと。成る程とすぐ思う誰でも。ところが実際は、中々にそれが御礼の言葉になって出てこないというところにね、人間のいわゆる、精進不足というものを感じます。何に精進せにゃ話を聞かせて頂いておってね、五十五歳までは信心というものも知らなかったが、ね。それからまぁ、わずか四年余りの間に(?)。お道の教師にまで志せて頂るほどしのものを感じて信心修行に日々一生懸命。
 先日もあの教師会の時に話したことでしたけれども。今、西岡先生が一番信心を頂いていきよるようですねと言うて言うたことでした。というのはあの誰もなら、西岡先生、西岡先生というてまぁ、こうちやほや言うてくれるものもない。まぁ、いうならば不安がいたて合楽では少ない。だからもうただただ人にひそかに信心が出来ておる。人にひそかに信心が出来ておる時が一番有難い時である。さー、沢山な例えば不安が出来て、先生とか西岡先生とかこう言われるようになるとね、いつのまにかその信心がおろそかになる。だから信心とはそういう時におかげを落とさんですむだけの信心を頂いておかなければいけない。
 私は昨日、お取次ぎをさせて頂いて中村さんのお取次ぎをさせて頂いて私は中村さんはもうほんとに偉いなと思いました、昨日。というのはあの、昨日お参りをこちらへ向かってきておった。電車の中で甘木の人と(?)会った。(?)(?)があの糖尿病であるかどうかを知るか知らずか知らんけれども、とにかくもう糖尿病ちは恐ろしい病気ですよ。もうやせ細ってよしとなって死んでしまいます今日、話を聞いたんです。もうそれこそおかげを頂かにゃという一生懸命の思いで参ってきておる時にそれを聞いたんです。ね。それで成る程もうやせほそってこれより以上やせられまいというぐらいになら今、(?さん)は糖尿病で(すうじゃく)しておるわけなんです。
 その時にあの、中村さんがあの思うておられることです。「先生、今の私はもう別に何もその頼まんならん願わんならんというような。特別(?)立てて信心することもないからいつのまにか信心があのゆるんでしまっておりました」という。(?)側の一番始めに入院する時にね、もう入院させて頂いたからまぁ、医者に頼っておるからまぁ、安心と思うておった。ですからお参りもそのためのわざわざのお参りということ(?)(?)(?)であるし、(?)又、(?)時々お参りをしてくるぐらい。
 師はお医者さんであったお薬であった。ね。それをその電車の中で思うてきたと。あの時に神様が祈れ薬れと仰るからね。例えば、医者にもかかった病院にもかかったけれどもあの時に神様のおかげを頂かなければ立ち行くことではないという今の気持ちで信心をさせて頂いておったらあのまま退院、あのまま健康のおかげを頂いておったでしょうけれども、私共がです嫌もすると別に願うこともないほどしにおかげを頂いておると信心がゆるんでしまっておった。
 又、病院に入院しておったらさー、医者だ薬だ。はー、この医師はやっぱり効くこの先生は上手というようなことは強く思ったけれども、神様のおかげを頂かなければならんということはもう(?)薄くなっておったことを気がつかせて頂いて改めてお詫びをさせて頂きます。私はそのお届けを聞かせてもらいながら偉いと思ったです。あの中村さんは。ね。あの中々そういうことはですねあの言えないことですね。例えば、あのもう何十年も信心させて頂いておってそげんところも中村さんは分からんとらんかったと言われそうにもあるでしょう。例えばあの、別に頼むこともないからお参りがね、何となしにもうやれやれで信心がおろそかになっておった。本当言うたらそういうもうおかげ頂いて願うこともないほどしのおかげを頂いておるから信心はもうそれこそいよいよ御礼参りの信心が出来なければならんと教えておられるのにそれが出来てなかったことを告白しておられるわけです。 又、病院であの(?)しと時にですもう確かに医者、薬の方へお向きをおいて神様の方は軽うなっておったことを告白しておられるです。昨日電車の中でそういう話を聞きながらですもうその告白しながらここでお取次ぎを頂かれてあの改めておかげを頂いたからというて油断してはならないね。医者にかかるから薬を飲むからというていわゆる、祈れ薬れと仰っておられる内容を取り次げてはならないということを気づいたというな意味のこと話しておられます。もう・・・・・・・【末尾切れ】